森鴎外に触れたのは、小学生の時。それは舞姫でもなく、雁でもなく、阿部一族でもなく、山椒大夫でもなく、高瀬舟でもなく、ヰタセクスアリスでもなく、うたかたの記でもない。
「横浜市歌」だった。
開港記念日だろうか。横浜市歌を歌うのが楽しみだった。その当時は作詞が森林太郎(鴎外)ということを知らず、森鴎外も知らなかったかもしれない。とはいえ歌詞の素晴らしさは胸に響いていた。
高校の国語の授業で、教師が「太宰治は森鴎外を尊敬していて、そばにお墓をたてた。しかし、鴎外の墓には本名の森林太郎と刻まれているために、桜桃忌の時にそれを知らない太宰のファンが墓にのぼったりして忌を見ている」との話をしていた。
その話がなんとも好きなのである。